一抹の寂しさ
先日、本庄市の小学校で行っているコミュニケーション講座の今年度最後の授業を行いました。その帰りに立ち寄った上越新幹線・本庄早稲田駅前にある「マリーゴールドの丘公園」、上の写真のように綺麗に咲きそろっていました。
この美しい景色を前にして、私の中に感傷的な気持ちが湧きました。
実は、10年続いた5年生の授業担当を今年で辞め、私が信頼する若手のコーチに引き渡すのです。6年生の授業は来年担当してから渡します。安心して任せられる人で、新旧交代です。
安心する、信頼する

このトピックスを書き始めたその時、この本「安心社会から信頼社会へ」とぶつかりました。衝撃的でした。
私は「安心」と言う言葉を、幼子が母親に対して抱いている安心感、心身の安全に関わる本質的な感覚としてのみ捉えていました。
この本では、人間関係で相手に対して抱く安心感を、「裏切るような行為に出ない確証がある、裏切る行為はその人自身に大きな損失が生まれる、そんな状況を確認している」ことから生まれる “安心” を述べていました。
極端な例ですが、任侠世界のように裏切ると自らの存在・命が危ない、なのでボス側は裏切るわけがないと確信し安心していられる、という意味の “安心” なのです。
筆者(山岸俊男さん)は、“安心” を閉ざされた集団が安定して維持されるための人間関係(社会関係)で捉えており、島国育ちの日本人に適応させています。
グローバル化、移民問題等など、グローバル化に向けて日本人が対峙する課題への大きな問いかけでした。
それに対比させた表現が「信頼」です。信頼とは
1.それを行う能力を持っているという期待
2.それを行う意思を持っているという期待
から成り立つと定義していました。これは「なるほど~」納得です。
「信頼」は、人間関係における不確実性が存在していても、相手の人間性のゆえに私を裏切る行動はとらないだろうと思い、期待することとしています。
これまでの日本社会を特徴付けてきた集団主義的な関係では、そこに生まれる不確実性そのもの(原因)を小さくする事で、お互いに“安心” しようとしてきたと説明し、今こうした日本型の安心社会が崩壊し始めていると・・・
これからの日本社会は「信頼社会」に作り替えていかなければならないと。
私は、安心と信頼を同質のものとして同じ線上で捉えて居ました。そう捉えたいとも思っていますが、著者の言う“安心” を再考しなければなりません。

私が小学校の授業を引き渡す相手は、「“安心” して任せられる人」ではなく「信頼できる人」ということになるのかな・・・
綺麗な「マリーゴールド」から始まった今回のトピックスですが小難しい内容に展開してしまいました。
こちらの写真、帰宅後の散歩道で見つけた「ギンモクセイ」です。キンモクセイに比べて見掛けることは少ないです。花の盛りは過ぎていましたが、その香りはまだ残っていました。場所を覚えたので、来年はもっと早く会いに来ますね。信じて待っていてください。
私は「安心感を与える人」になりたいのか「信頼される人」になりたいのか・・・


