「専門家」とは

▲ 凄いことが分かり易く書かれている

教育の根本的改革は不可能

「教育の根本的改革は不可能である」から始まる内田 樹(うちだ たつる;神戸女学院理事長)さんの著書「街場(まちば)の教育論」、凄いことが分かり易く書かれています。
慣性が非常に大きく、止めたり一旦停止させることが出来ない教育を根本的に変えることは出来ない。なぜなら根本的に変えるためには現状を一旦止める必要があるのに、教育は止めることが出来ないから。
今乗って走っている車の調子が悪い時、走りながら修理出来ません。乗るのを止めて修理工場に出しますが、教育制度はそれが出来ないのです。「納得」。

また、教育を論じている著者自身も
・その論の正当性は、相当の期間を経た後でなければ検証できない
・なので、論者は教育に関する自説の誤りに責任をとるリスクを感じることなく断定的に論じることが出来る
これを「自戒の念」として述べています。

で、どうする?

「止めずに直す」ためには、現場に立つ教員の能力を最大限に開発し、オーバーアチーブ(overachieve;期待や予想を上回る成果や実績を上げること)に導くしかないのです。そのためには現場の教師のために「つねに創意に開かれた、働きやすい環境」を整備することに尽きる、と結論づけています。

また、止めずに出来る制度改革として「教養教育」を再定義しています。教養教育の必要性を述べている重要なポイントなのですが、今ここでは触れません。

「教養教育」に対峙する「専門教育」についての記述も明解で共感するものだったので、こちらを紹介します。
専門教育を受け「専門家」になるために必要なことは、「自分の専門を生かせる領域を知っており、他領域の専門家と協働できる能力を持っていること」しています。「専門バカ」との区別を明確にしています。「納得」。

「教養教育」と「専門教育」を対等に行うことの必要性も納得させてくれます。
そして、これは昨年11月のトピックスで述べた「リベラルアーツ」に対する考え方と一致しており、嬉しく感じました。

人が食べない柿は甘くも渋くもない

こちらの写真、散歩道で見掛けた柿ですが、誰も手を出すことなく熟し落ちています。もったいない・・・

私が子どもの頃は、どの木が甘くて、どの木が渋い、何処の柿は取っても怒られない、など分かっていて手を出していました(^0^)。

今どきの子は、口にするものは店で売られているもの、保証されたものに限られているようですね。自分で判断しなくなり、出来なくなっている。(AIに答を求めていると、全てがそうなってしまうのでは、と老婆心)

台風・豪雨の翌日

こちらの写真も川沿いの散歩道からの一枚。台風・豪雨一過の翌日です。
川の水は、写真手前の堰堤まで溢れています。2019年の台風で崩れて作り直した堰堤です。
作り直しても、またそれを超えてくる異常豪雨。過去の最高水位が参考にならない時代に入っています。

「今どきの子は・・・」などと言っていられません、「今どきの人間は・・・」と神様から言われているのでしょうかね。

「で、どうする?」「あなたは何をする?」
コーチングの必要性、コーチの出番が増える時代を感じます。